イランから、陸路でドイツへたどり着いた。
そして、遂にヨーロッパ脱出
(前記事:ドイツ行ったら、カリーブルストだけは喰っとけ!!!!! )
ベルリンと言えば、「ベルリンの壁」
ドイツ分断、冷戦の象徴の壁である。
カリーヴルスト(カレーソーセージ)を食いにドイツに来た、ついでに、ベルリンの壁を見ようと思った。
1961年に東ドイツ政府によって建設され、1989年に市民によって破壊されたベルリンの壁。
当時は大変な騒ぎだったらしいが、
正直生まれる前の出来事で、重大なニュースだった 「らしい」 としか思っていなかった。
最初見たときの印象は
「薄っ」
「アート」
「観光地」
である。
第二次世界大戦、ドイツの降伏により、ドイツは東西に分断された。
西ドイツは、アメリカ合衆国・イギリス・フランス占領地域の資本主義体制
東ドイツは、ソ連占領地域の共産主義体制
東西の行き来が自由であったベルリンだったが、
西ドイツと東ドイツとの経済格差は年毎に拡大
49年から60年まででは東ドイツの人口の4分の1にあ たる250万人もの東ドイツ住民が西へ流れた。
東ドイツにとってはまさに、国家存亡の危機。
そこで東ドイツ国民の流出を防ぐために、つくったのが、ベルリンの壁である。
「ベルリンの壁」 だけに、理解のハードルは高いように思えたが、わりと自然の出来事だったのかもしれない。
舞台は日本。
大げさだが、もしも戦争で日本を占領したとして、僕が東側を管理することになったとしよう。
しかし、西側の体制のほうが住民には人気で、どんどん東から西へ人間が流れてしまう。
しかも、冷戦状態にあるような相手の地域に、こちら側の人間が流れてしまうのだ。
こちらの勢力が、敵陣に流れる一方。
「こりゃいかん」 ということで、何か策を練らなければ。
必死の策であるが、大きな壁を作って、流民を阻止しよう。
そんな感じだろうか。充分にあり得る策である。
壁を作ったあとも、いろんな手法で、5000人を超える脱走者がいたらしい。
警備者さえも、脱走する例が多かったとか。
それほどに、窮屈な社会だったんだろうな。
記念碑として残された、一部の壁には
24の国の芸術家118人による、ベルリンの壁をテーマに壁画が描かれている。(East Side Garally)
個人的に目に付いた作品を撮ってみた。
わりと、落書きだらけである。
日本好きなドイツ人が描いたらしい
最も有名で、知られている作品
「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」を描いた戯画
(ホーネッカーは当時の東ドイツの指導者、ブレジネフはソ連の指導者)
この前で写真を撮るために、人だかりができているのをみて
「観光地だ。」 と思った。実際、重い歴史背景を知る場所というよりは観光地である。
でもこうやって、知るきっかけになるから、観光地でも良いんだと思った。
まあ、この壁画とかなかったら恐らくほとんどの人は行かないだろう。
僕は、へぇーっと言った感じで颯爽とこの観光地を駆け抜けた。
重いバッグパックを抱えながら、写真を撮るのは疲れる。
だけれど今日は、久しぶりに、緊張感のある出発日でワクワクしているのである。
遂に、中東イスラエルへ行くのだ。
イランから陸路でドイツまで辿り着き、舞台は再び中東へ。
長い距離を北上してきて、少し感慨深い。
東欧の全く未知の国々は、意外と面白味があった。
北上するほどに、先進国の快適な環境になり、旅から旅行に変わっていく
憂鬱感や焦燥感を味わうこともあった。言わば、待ちに待った、ヨーロッパ脱出である。
と言っても、さほど長い期間ではないが。
異国を味わえる旅は、もっと刺激のある旅は、ここでは無い。
そう感じていたのは、確かである。
イスラエルという国を訪れるのに不安が無いわけではないが、やはり少し緊張する。
ヨーロッパから中東へ
世界が一変するこの感覚が、とっても好きだ。世界一周の醍醐味である。
未知の世界に自由に飛び込み、旅の新たなページがめくられるこの瞬間が、好きだ。
アジアを発ったときも、特別な感覚だったなあ。
まっさらだったページが、鮮明に五感が蘇る旅情が刻まれていく。
知ってしまったのだ。
この他では味わえない快感を。
ドイツから、イスラエルへ。
宗教三大聖地、パレスチナ自治区、死海
未知の世界が、待っていた。
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