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イスラエルへ訪れるのは、少しの勇気が必要だった。
パレスチナ自治区など、テレビで流れるニュースでは正直あまり安全ではない、というイメージを持っていたから。
それに、東欧ブルガリアからドイツまでクリスマス巡りなんかしてヌカヌカと旅をしていたものだから、旅の感が鈍っている気もしていた。
ヨーロッパから、中東へ一気に旅の舞台を変えるのは何も難しいことは無く
インターネットでポチっとチケットを手配するだけ。
そう、ドイツまで北上したのは、単にイスラエルまでのチケットが安かったから、というのが大きな理由である。
世界三大宗教の聖地、イスラエル。初めて海外を旅するときのように、未知の世界に飛び込んでいく心境だ。
テルアビブ空港に着いたのは夜。慣れた空港泊で朝まで過ごしていると
そこで、奇跡の再会があった。
なんか、聞き覚えのある声がすると思ったら、ミャンマーの宿で会った、なっちゃんではないか!!!
「えっ!なっちゃん!!!」
「ひでくん!(僕)何してんの!?!?」
「空港泊してます!」
なっちゃんも世界一周をしているのだが、すでに女1人でアフリカ縦断も終えている強者。
最初見たときは大学生3年生ぐらいかと思ったが、3つ年上で、穏やかな喋り方と旅歴のギャップには誰もが驚かされる。
4か月前に、ミャンマーで出逢い、その2ヶ月後にネパールの宿で偶然再会し、その2ヶ月後に
ここイスラエルで、同じく空港泊をしていたところ再会したのである。
そういった感動の再会があるのも、長期旅行ならではかもしれない。
どうやら、なっちゃんは入国審査に引っかかっていたらしい。
実はイスラエルの入国審査は相当厳しいと評判で、長いと数時間質疑応答や放置プレイ、カメラの写真などチェックされることもあるのだとか。
特にアラブ諸国(対立関係にあり、イスラエルはアラブ諸国に囲まれている)へ訪れた人のパスポートスタンプを見ると別室に送られると聞いていた。
ぼくは、イランへ訪れていたため、その覚悟であり、むしろ尋問してくれたほうがネタになると楽しみにしていたのだが、たった5分で通過。
たしかに僕の顔つきはあまり悪い人には見られないが、もう少し尋問してくれ。尋問してくれ、なんて初めて使う言葉かもしれない。
まあ、良心が顔に滲みでてしまってるんだから、仕方がないか、と自分を納得させた。
なっちゃんは、もう1人女性と一緒で、向かう宿(日本人に有名な宿)も同じだったから共に向かうことにした。
男とはいえ、正直、1人で不安だったから安心したのが本音である。
ヨーロッパはほとんど1人だったから、久しぶりに誰かと新鮮な旅を共有できる心地良さも感じる。
宗教の三大聖地、エルサレム
久しぶりに感じる、この異国感。
いままでに感じたことのない空気。
正装をしたユダヤ人が街を歩く姿
ユダヤ教について(http://www.ijournal.org/world/judaism.htm引用)
ユダヤ人は、超正統派、正統派、改革派の3つに分けられる。
超正統派、正統派は律法の字句に忠実な生活を心がけている。改革派は律法の字句にこだわらず、現代に合わせた生活をしている。
超正統派の男性は夏も冬も黒のスーツに黒のシルクハットをかぶり、もみあげを切らず、ひげも伸ばしている。
超正統派の人々はエルサレムに集中して居住しており、エルサレムの人口の約30%を占める。
特定のエリアに共存している。生活は政府の援助によってまかなわれ、仕事をもたず、日々トーラーを読み、祈りに明け暮れている。子供たちはイエシバ(神学校)で勉強し、兵役を免除されている。
正統派の男性は頭頂部にキッパという小さな帽子をかぶっている。
礼拝はシャバット、安息日(金曜日没から土曜日没)に行なわれる。安息日には一切の労働が禁じられている。ボタンを押して機械類を動かすことも労働としてみなされ禁じられている。
車の運転はもちろん禁じられている。公共の交通機関も例外を除いて全て止まる。
改革派はアメリカで主流であり、ユダヤ教の信仰を現在の生活習慣に合わせても構わないというように柔軟な立場である。
日本人の感覚からすると、非常に興味深い生き方である。
子供のころから神学校に通い、祈り続けるのが仕事で国から給料が出る。
きっとここでは、無宗教、神という存在さえ信じきれない日本人の僕のほうが不思議な生き方だと思われるのかもしれない。
正確に言えば、神様はそこまで信じてはいないが、いる、ということにしている。
なぜなら、神を信じている 「人」 がこんなにも世界中にたくさんいるからだ。祈る姿をたくさん見てきたからだ。
それを信じて救われている人もたくさんいる、幸せを感じている人もいる、祈りすがらなければ生きれない人もいる。
だから、それを否定する理由が無いのである。
それに
宗教は、生まれた場所に大きく左右されるものだと思っている。
もしも僕が、ユダヤ教徒の超正統派の家庭に生まれていれば、僕は毎日神に祈りをささげ、生きていたのかもしれない。
もしも僕が、イスラム教徒の家庭に生まれていれば、きっと僕はイスラムの教えを、そのままそう信じていたかもしれない。
もしも僕が、戦争地域で生まれ育った子供だったならば、憎しみの連鎖を背負った人間になっていたのかもしれない。
そんなもんかもしれない、と思ってみたり、この国に来てから、難しいようなことを無知ながら考えるのである。
もともと、ユダヤ教が元となり、キリスト教、イスラム教が生まれた、というのもこの地で初めて知った。
実はこれらの3宗教は同じ神様を祈り、同じく平和を祈っているのに、
聖地は異なり、時には差別や争い事が行われる。
宗派が分裂していくのは、人間同士の対立、内部分裂みたいなものだろうから不思議ではないのだが。
だが、僕の悪い癖で、こういうとき妙に感心してしまう自分がいる。
「やっぱり、人間って変な生き物だなぁ」
というのも、結局理解できないから、変な生き物、ということで片付けるのである。
72億もの、変な生き物がこの世界にいるのだから、皆それぞれ信じるものも違っても不思議ではないか。
ということにしておこう。
街には、銃を持った兵隊があちこちにいる。
ユダヤ人が街を歩いている。キリストの協会から鐘が街に響く、イスラムの祈りコーランが街に流れる。
黒い肌、白い肌、青い目、黒色のスカーフ、カラフルのスカーフ
一言で言えば、混沌の世界である。
インドのような、人間の生きる力が溢れすぎてゴチャゴチャしたようなカオスな世界とは違う
イスラエルは、世界の縮図のように様々な宗教、人種が交錯し
それぞれの憎しみ、悲しみ、平和、祈り、様々な人間の感情が積木のように積み上がり、
しかし簡単にもそれが崩れてしまいそうな緊張感のある混沌の世界である。
実際、 この世界の縮図のなかを覗いてみると、歴史はとても複雑で、
今、何が起きているのかさえわからない自分の無知さを恥に思った。
「一体、宗教とはなんなんだ」
そう思ったのは、初海外で訪れたインド以来かもしれない。
頭ではなく、5感に訴えかけてくるのだ。
宗教三大聖地が存在する旧市街地は、迷路のよう。
ユダヤ教が、神に謙虚さを示すために頭を隠すキッパと呼ばれる帽子。
ちなみに、逆にキリスト教は教会で、帽子を脱ぎ、神に謙虚さを示す。
子供が銃のおもちゃを持っていると、うまく笑えないのである。
にしても、イスラエルの人って顔整っている人多いなあ。
旅人の間では、イスラエルは美人が多いという評判もよく聞く。
(入国審査で、美女に尋問された、俺はブスだった、などの会話は定番である。)
たまに嫌な冷たさを感じる路地がある
チュロス作りのおっちゃん
ファラフェルサンドがうまい!(ファラフェル:ボール型のコロッケ味)
中東、定番のケバブ
日本人の旅人がよく集まる、イブラヒムおじさんの宿に泊まった。(もはや日本人宿)
というのも、実はイスラエルは日本並みに物価が高く、とても外のレストランでは食べれない。
ここでは、イブラヒムが3食用意してくれるし、イスラエルで起きている問題についても教えてくれる。
口癖は、「 Eat !! 」
腹を空かした旅人に死ぬほど食べさせてくれるのである。もういらない、と言ってもよそってくるのである。
そんな人柄の良いイブラヒム(世界平和のために、各国で講演など行っている)の宿はアットホームで落ち着く。
それに、イスラエルに来る旅人は、なかなかコアな人が多いから
パレスチナの情報、隣国ヨルダンの情報、国境越えの情報、だけでなく世界各国の情報収集もできるのだ。
ここに訪れる不安はいくらかあったが、少し歩き回っただけで
期待以上の異国感を味わえそうだ、来てよかったと思った。
全身の五感で、異国を味わうこの感覚。やっぱり、これが「旅」である。
いかに自分が生きてきた環境、生き方と異なるものに触れるか、今までに見たことのない景色に感動するか、である。
そう思うと、自分でも感じていたようにヨーロッパをまわっていたときは、自分の求めていた「旅」とは少し違ったようだ。
そう感じていたんだ。観光地を忙しくまわって、写真を撮って、一体これのどこが「旅」なんだと。
でも、そんな葛藤も嫌いではない。
「旅」とはなんだ、なんてことはいろんな場所を旅して、自分の感覚で様々なものに触れなければわかり得ることはない。
「人生」とはなんだ、なんてこともいろんな環境を体験して、いろんな人に出逢って、自分の感覚で生きてこそ見えてくるのかもしれない。
気づくと、こういう面倒くさいことを考えているのである。
次回は、いざ、3大宗教の聖地の1つ、
ユダヤ教の聖地、嘆きの壁へ。
巨大な壁の奥には、イスラム教の聖地がある。壁に額をつけ祈る姿は、異様な光景だった。
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